2007年4月から通う筈だった准看護学校

2009年6月9日

昨夜、旦那のお母さんが『ギョーザを沢山作ったから』と言って

遊びに来てくれたから数年ぶりに義母と夕食を囲んだ。

娘を失ってから2年以上ホットプレートを出さなかったけど

久しぶりに出して来てギョーザを焼いた。

娘が生きて居ればどんな顔をして食べてたかな。

どうしてこの場に娘が居ないんだろう。

娘は もう2度と美味しい物を食べられないんだと思うと可哀相で仕方無い。

20歳位のお嬢さんや楽しそうに高校に通う学生を

死んだ様な目で眺めてしまう事がある。

あのお嬢さん達は当たり前に生きてるのにどうして家の子だけが、、

家の娘に非が在ったから高校を退学に成ったんだけど

退学も要因の一つだろう。

退学の原因は遊び半分で友達たちと万引きをしてしまった事。

警察とお店と家庭での事なので

本人たちは充分反省したから学校には知らせる必要が無かった上、

わざわざ学校に言わなければ学校にバレる事は余程の事が無い限り無い。

が。別の母親が「後でバレると怖いから」と学校へ申告してしまった。

そういう経緯で数人のグループの内、家の子だけが退学処分になりました。

 (数か月前に友達を庇って暴力を振るい、停学に成ってたから)

変に正義感が強過ぎて損してしまうタイプの子でした。

仲の良い母親から聞いた話だと、普通科の生徒の前で

『看護科の生徒一人を辞めさせた。まだこの学年で何人かを辞めさせるのが目標だ』

と云った教師が居たらしい。

これが教師の言う言葉なのか?と耳を疑った記憶がある。

自分だけが退学に成った娘は、高校の教師の事も、友達の事も悪く云いませんでした。

私が学校への恨み言を言っていたら

「お母さん、そんな事云うたら往かんよ」と云う子でした。

その後、近所のスーパーに買い物に行ったら

店先で世間話をしている主婦が居て、

家の娘の事を噂してたのを偶然聞いて仕舞った。

凄い確率だと思うけど、これって確実に家の子の話だよね?と思った。

通りすがっただけなのに本当に丸聞こえで悲しくなった。

知らない主婦1:『H校の看護科の子が退学になったんやと』

知らない主婦2:『推薦で入った子らしいな~』

噂話は楽しいんだろうけど、いい大人なんだから もう少し場所を配慮して頂きたかった。

退学に成った娘は『正看護師になる夢を捨てたくないから』と

市内の定時制高校へ2006年、高2の春に編入学しました。

更には定時制高校に通いながら2007年の4月から

准看護学校へ通う予定になってました。

4月から入学する筈の坂出准看護学校の先生方や理事長は大変素晴らしい方々でした。

というのも、家の娘は1次試験に落ちたけれど、諦めきれず『2次試験も受けたい』

と、もう1度願書を出して来たそうだ。

ただ、規定では1次試験で落ちた者は同年度の受験資格がありません。

それを知らずに家の娘は願書を出して来たらしい。

なのに娘の強い意思を汲んで下さった学校側が

2次試験を受けずに合格させて下さいました。

その時は本当に夢か奇跡が起きたのかと思いました。

なんと人情深い先生方でしょうか。

「Yちゃん良かったね!本当に嬉しいね!頑張ろうね!」

そういいながら泣きながら親子で喜びました。

しかし娘は1週間後にこの世を去りました。

准看学校の入学説明会の日が娘の葬儀の日となり、

当時の無念さを活字で表現する事が出来ません。

後に知人から訊いた話だけど

理事長様に至っては娘が定時制高校に通いながら看護学校に通う事を承知の上、

娘にとって最適な実習先を根回しして探して下さっていたそうで

もう有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

こういう素晴らしい先生方とのご縁が無かった事が

娘にとっても私にとっても無念で成らない。

追記。

娘は定時制高校への通学は車の送迎かバイクで通学しておりました。

学校の校門近くでネズミ捕りをしているのを何度も見かけてたから

普段からバイク通学の時はルール厳守を言いつけてた。

いつも気を付けてた筈なのに、その日に限って一旦停止を怠って仕舞った娘。

一旦停止をうっかり忘れ、定時制高校を出てすぐの場所での自損事故。

警察は正しい追跡と云いました。確かに違反者の追跡は正しいです。

しかし、どうして真っ暗闇の中を隠れて取り締まる必要が在るのでしょうか。

歩行者を始め、すべての人の命を守る為の取り締まりならば、

他に方法が在るのでは?と思うのは私だけでしょうか。

ましてや未だ10代の女の子が真冬の真っ暗な場所から急に追いかけられたら

どれ程びっくりして動揺した事でしょう。

家の娘に非が在る事には変わりはないけれど

ちゃんとヘルメットを被っていたのに、ノーヘルで逃げた様な事を病院で訊かされました。

インターネットの時代だから心無い中傷の書き込みにも傷つけられました。

『死んで当然』これを目にした親がどんな気持ちに成るかお解りでしょうか。

一部のニュースや記事だけで判断しないで欲しいと願う。



同じ境遇が切っ掛けで友人に成った友の死

2009年5月22日

今から約2年と4か月前、私は最愛の娘を亡くしております。

当時は どんなに親しい友人が励ましてくれても耳に入って来ず、

逆に辛くなるだけでした。

誰にも私の気持ちなど解って貰えないんだ。、

ある日、毎日泣いて暮らしていた私のもとに近所に住むAさんが訪ねて来ました。

実はAさんは4年と3か月前に中学2年の娘さんを亡くしています。

学校での虐めが引き金で心の病気に成り、

食事が取れない状態に追い込まれて入院生活をしていたけれど

治療の甲斐無く亡くした過去が在る。

Aさんの娘と、家の娘は同じ中学の同級生で同じ部活に入ってました。

私達家族が今の土地に引っ越してきた数日後にAさんの娘さんが亡くなりました。

何のための学校だったんだろう。

我が子を死に急がせるために学校に通わせた訳では無い筈なのに。、

Aさんが この世の地獄の様な状況の中、

目と鼻の先の距離に新築で越してきた我が家の娘は元気に生きており、

新しい家に舞い上がり気味の我が家が目に入ると辛さが増した事でしょう。

どんな気持ちに成っただろう と考えると心が張り裂けそうになる。

当時の私は この辛さを知らなかったから

「早く元気に成ってね」とAちゃんに言ってしまいました。

この禁句

自分の命より大事な我が子を亡くした人に言う言葉では無い事を

我が身に降りかかってきて初めて知った。(その3年後に家の娘が事故で亡くなりました)

ここから綴る事が表題のとおりで今だから綴れる気持ちに成ったので綴ります。

実は、Aさんは今から1年前にまだ40代の若さで他界して仕舞いました。

当時、彼女の死にショックを受けて1週間寝込みました。

ましてやブログに綴る事など到底出来なかった。

Aさんとは、ほんの数か月でAちゃんと呼ぶ程に仲良くなり、

私を心配したAちゃんは、

泣き暮らす私の話を訊くために足繫く足を運んでくれ、

「身近で気持ちを解ってくれる友達がやっと出来た」と思ってました。

これからもずっと仲良くしたかったのに 

私が体外受精の治療を始めたころ、心の病気で亡くなってしまいました。

私を励ますために車で迎えに来て一緒にスーパーに行ってくれたり、

「炊事は無理やろ?」とお弁当の差し入れをしてくれた事も在ったな。。

家の娘が健在の頃、虐めをうけていたAちゃんの娘さんの事を

娘が学校で かばった出来事が在ったそうで、

『Yちゃんの優しさが有難かったよ』と想い出の話をしてくれた日も在る。

それでも当時のAちゃんの精神的ダメージは

私と変わりなく とても大きかったんだと理解した。

これから先、彼女の事を忘れる事はありません。

今日は近所に住むAちゃんに手向けるために蝋燭を買い求めました。

花の絵柄が綺麗な蝋燭を選んだ。

追記。

ある方のブログで心を打ちぬかれました。

(”ゆく”さんの日記で『泡沫』注*今はブログを閉じて居られます)

スーパーのレジで自分の前に並んだ人を見てこう思ったそうです。

「容姿が美しい事や生活レベルが高い事、。(中略)

そんな事は全く羨ましいとは思わない。

我が子の死に顔を見なくてすむ生涯を送れる事が何よりも羨ましい。」

全くそのとおりで読んだ瞬間に涙が止まらなく成った。

表現が難しいけど子供の『寝顔と死に顔』は、よく似ている。

まるで寝てるかの様に死に化粧をし、装束を着せられてる我が子。

焼き場に到着し、気が付けば目の前には我が子を焼くための炉があった。

見た瞬間、正気を保てなかったのか私は気絶したらしい。



久しぶりの骨付き鳥一鶴

先日、旦那が知人と一緒に骨付き鳥一鶴を食べに行き、

私にもお土産用に骨付き鳥をテイクアウトしてくれました。

娘を亡くしてから2年余りの間、全く外食をしなくなった私には外の食べ物が懐かしく、

久しぶりに食べたらとても美味しかった。でも、娘に申し訳ない気持ちになった。

娘が小さい頃から何かあれば一鶴に食べに出掛けてたから

とても想い出深い食べ物です。

娘が亡くなる数週間前、「急に一鶴が食べたくなったから」と

彼氏とのデートで骨付き鳥を食べてきた娘の言葉を思い出す。

更には娘が小さい頃に親子で通ってた小さな居酒屋にも

彼氏と一緒に出掛けてました。理由を聞くと

お酒は飲まなかった娘だけど「マスターとママに会いたく成ったから」と言ってた。

更には2年程 疎遠に成ってた曾爺ちゃんの家にもひょっこり顔を出して

「爺ちゃんに逢いたくて行ったけど、爺ちゃんが又お小遣いくれようとしたから もう子供じゃないから断ってきたよ~」

とも言ってた。不思議に思うのは、なんで急に?なんで今頃?と思ったのを覚えてます。

今思えば自分の命を判ってたかの如く

会いたい人に逢いに行ってたのかな?と感じ、無性に泣きたくなった。

変だと感じていたのに どうして当時の私は気が付かなかったんだろう。

2年半ぶりの実家

先週の金曜日(4月10日)約2年半ぶりに実家に帰りました。

昔は娘を連れて しょっちゅう実家に帰ってたから

実家には娘との思い出が沢山在る

だから帰りたいけど帰れなかった場所でした。

先日は銀行に行く用事があり、息子を一緒に連れて行く自信が無いから

実家の母に小一時間程 息子を預かって貰いました。

今回、息子を預ける事が目的だったけど、

実家に帰る事が出来たのは進歩だと思うし、両親も驚いてると思う

久々に帰った実家は模様替えですっかり変わってたけど

昔と同じ匂いで涙が出そうに成った。

丁度昼休みに帰宅してた父と居合わせて「何年ぶりや?」と

嬉しそうに笑いながら皮肉を言われました。

追記。

母から聞いた話だけど土曜の夜から姪と甥が実家に泊まりに来てて、

甥っ子が遊び道具を探してたら物置からキックボードが出て来たらしい。

キックボードは娘が小学生の頃、

「じいちゃんコレ買うて~」とおねだりして買ってもらった物。

甥と姪はキックボードで遊んでたそうで、キックボードを気に入った甥が帰り際に

「爺ちゃん、キックボードを持って帰ってもかまん?」と聞いたけど

「それは往かん!〇〇の物やけん持って帰るんは往かんぞ!」と言ったらしい。

悪気が在って断った訳では無かった筈。

ただ、父なりに想い出深い物だったんだろうな。と思うと涙が出た。

娘は実家で寝泊まりする事が多かった子だったから

キックボードで遊んでた娘の姿を何度も見てた父には大切な想い出の品なのかもしれない。

その翌日の昨夜は、我が家に両親を呼んで甥っ子の誕生会を開きました。

お寿司をとり、ケーキを食べて

久しぶりに両親や妹家族が我が家に集まって賑やかな夜になり、

娘がその場に居ない事を除けば本当に楽しい夜でした。

2年ぶりの長距離運転

今日は約2年ぶりに長時間 のドライブをしました。

ドライブと言っても主人が講習を受けに行くから送り迎えをしただけ。

過去に娘を乗せて何度も通った道なので色々な思い出が蘇って胸や喉が苦しくなった。

主人を車から降ろしたら 泣きながらの運転だったけど

昨年の今頃は庭に出る事でさえ一苦労だったから今日は良く頑張れたと思う。

実は、娘が亡くなる1年前から数か月おきに

自分が死んだら、、と何度か訊いてきた事が有ります。

娘:「お母さん、〇〇ちゃんが死んだら皆泣いてくれるかな?

 〇〇ちゃんが死んだらどうする?」

私:「アホな事云わんの!恐ろしくて考えれんわ」

どうして あんな事を何度も訊いてきたのでしょうか、。

私は普段からアルバムを広げる事が多かったです。

月に2回は広げ、穴が空く位に娘の成長する姿をアルバムで確認してました。

今思えば娘の姿を目に焼き付けるかの様に見てた気がする。

それは将来、辛くて見る事が出来なくなるのが判ってたんじゃ無いかと思う位

案の定、もう見るのが辛くて娘のアルバムを開く事が出来なくなりました。

仏壇に娘の好物を置く事しか出来ないのが悔しい。

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