2年ぶりの長距離運転

今日は約2年ぶりに長時間 のドライブをしました。

ドライブと言っても主人が講習を受けに行くから送り迎えをしただけ。

過去に娘を乗せて何度も通った道なので色々な思い出が蘇って胸や喉が苦しくなった。

主人を車から降ろしたら 泣きながらの運転だったけど

昨年の今頃は庭に出る事でさえ一苦労だったから今日は良く頑張れたと思う。

実は、娘が亡くなる1年前から数か月おきに

自分が死んだら、、と何度か訊いてきた事が有ります。

娘:「お母さん、〇〇ちゃんが死んだら皆泣いてくれるかな?

 〇〇ちゃんが死んだらどうする?」

私:「アホな事云わんの!恐ろしくて考えれんわ」

どうして あんな事を何度も訊いてきたのでしょうか、。

私は普段からアルバムを広げる事が多かったです。

月に2回は広げ、穴が空く位に娘の成長する姿をアルバムで確認してました。

今思えば娘の姿を目に焼き付けるかの様に見てた気がする。

それは将来、辛くて見る事が出来なくなるのが判ってたんじゃ無いかと思う位

案の定、もう見るのが辛くて娘のアルバムを開く事が出来なくなりました。

仏壇に娘の好物を置く事しか出来ないのが悔しい。

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娘を亡くしてからの周りの反応

2008年11月10日

私は娘を亡くしてから朝起きる事が出来なくなり、昼まで寝込む事が多い。

何をする気にも成らない。

テレビから聞こえてくる楽しそうな声を聞くのも苦痛だから

テレビを見ない様になり、新聞さえ読まなくなった。

音楽だって聴く気に成らないから

車の運転中のカーオーディオも聴かなくなりました。

太陽の光も未だに嫌。風の匂いにも敏感で風が吹いても悲しくなる。

娘が生きていた頃は早朝から起きて時間が幾らあっても足りなかった。

今はもう、刺激のない静かな空間で過ごしたい。

まだまだ現実を受け入れる事が出来ない。

(2022年3月加筆)

親の場合は勿論ですが、夫婦の場合でも早かれ遅かれ、

どちらかが先に亡くなる事への心積もりが在るのが普通。

ただ、その対象が我が子となると、

今の世の中で「親より先に子が亡くなる」という

心積もりをしてる人は先ず居ないと思います。

当初は、社交辞令的な励まし言葉に傷つき、何度も泣いた。

代表的な言葉は

「早く元の様に元気に成ってね」「いつまでも泣いてたら娘さんが悲しむよ」

「もう帰って来ないんだから」等、。

やっぱり分かって貰えないんだと思いました。

確かに、慰める立場目線だと「元気に成って欲しい」気持ちが1番強いから

双方の気持ちが食い違うのは仕方がない。

ただ、子供を亡くした親は元の自分に戻る事を願っているのでは無く、

『元の姿で我が子を返して欲しい』 その願いしか無いのです。

当時の私は
『ずっと泣き続けて居れば誰かが私のもとに娘を元の姿で返してくれる』

そう思い込んでいて、娘が亡くなった事をずっと認める事が出来ませんでした。

当然ですが、いくら月日を費やしても願いが叶う事はありませんでした。

だからとても辛いのです。

とてつもない月日の経過と共に だんだんと諦めに代わっていったのです。

私の場合はウェブ上で同じ境遇の方のブログを探し、連絡を取り合いました。

励ましあったり慰めあったり、互いに気持ちを共有する事で

自分なりのグリーフケア(喪失を癒す方法)を見つけた気がします。

ブログを通じてメッセージ交換をする事で、

私もこの方たちと一緒に頑張って生きて行かなくては。と思うようになりました。

我が子を失う経験から何年も経過してる方からは

貴重な意見や励ましを貰う事で とても助けられました。

こんなに苦しいのは自分ひとりじゃない。

私の他にも同じ様な悲しみを背負っている親御さんが居る事を知りました。

当時の私は、友人への対応が悪かったのもあり、

『今は、そっとして置こう』→『もう、永遠にそっとして置こう』

と、いう流れで離れて行った友人が殆ど。

それでも、私の気持ちを理解してくれた友人も居て

無愛想な私に玄関先で二言、三言かわすだけの挨拶だったけど

「御供」と書かれていないお菓子や食材を

 娘へのおやつの様に定期的に差し入れ続けてくれた。

その友人とは今でもお付き合いしています。

気難しくなった私を見捨てずに

ずっと見守り続けてくれたミカとノリコは一生大事にしたい親友だと思っています。

(死別)我が子を失ってからの悲しみのプロセス

今日は主人の仕事のお使いで1年10か月ぶりにケーキ屋に行きました。

数か月前ならどんなに頼まれても

『ケーキ屋さんなんて絶対に無理。』と断ってたけど今日は不思議と行けた。

ケーキ屋の店内で娘が好みそうなケーキが陳列されているのを見ているうちに

『娘に買って帰ったら娘が喜ぶだろうなぁ。』と思った。

だんだん、娘が亡くなっている事が嘘に思えてきて

「娘に買って帰ろう」と、娘の分も買った。

帰宅後、直ぐにお仏壇に置いたら我に返る。

何で仏壇に置くんだろう?又辛くなりました。

何だか嘘の世界に住んでいるみたいな感覚です。

娘を亡くしてからの私は人と話をしたり、会うのが嫌で

社会生活に適応出来なくなりました。

ただ今日は、ケーキ屋に行く事が出来た自分を評価したい。

娘を失ってからの私は

ケーキ屋さんで「これ下さい」その一言さえ言えなかったから。

少しづつ出来る事を増やしていけばよいと思ってます。

喪失を癒す作業は人それぞれ個人差が在って当たり前だと思います。

私の場合は普通より長かったのか、短かったのか、、

これも人それぞれなので分かりません。

我が子を失った私は、これからどうやって生きて行けばよいのかが分からず、

グリーフケアの本を読んだりしたけど解決方法を見出す事は出来ませんでした。

我が子の死を受け入れる事ってそんなに簡単じゃない。むしろ到底無理だと思ってる。

(2022年3月加筆)

喪失には悲しみのプロセスと言うものが有るらしいので簡単に記述しておきます。

1.ショック期・・ショックが大きすぎて無反応、無感覚で周りには冷静に見られてる。

あるいはパニック状態に陥る。

2.喪失期・・頭では分かっていても現実だと思えなくて

故人がまだこの世で居るかのように思えてしまう。

泣く、怒る、自分を責めてしまう、敵意さえ抱いてしまう。

3. 閉じこもり期・・頭で理解が出来てはいるものの、

自分の価値観や生きる希望が見いだせなくて無気力になり、

あの時にああすれば良かった、、こうすれば良かったと後悔をする。

4.再生期・・新しい社会関係を築こうと思えるようになる。

人との関わりが出来るようになる。

私の場合は、この15年間を振り返ると1~3がとても長く感じ2~3年は費やしました。

.の新たな社会生活を望むという面では

不妊治療に臨もうと思った事がそれに値するのかもしれません。

しかし、社会的な人との関わりが動揺も無く、普通に出来るようになったのは

4年が過ぎたころかも知れません。

それでもやはり「悲しみを乗り越える」という言葉はやっぱり違うと思っていて、

「悲しみを背負う覚悟が出来た。」と言う意味合いが大きいと思います。

一つ言える事は、数年は掛かりますが悲しみのプロセスからは必ず脱出できます。

悲しみのプロセスの間は今まで出来ていた事が出来なくなります。

個人差はあるでしょうが私の場合は本当に何も手に付きませんでした。

生き地獄の真っ最中なので出来ない事を気にする事は在りません。

家事、仕事、人付き合い等など数年間は以前の様に出来なくて当たり前です。
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対人恐怖症だけど小さな趣味を見つけた

今日はいつもより頑張って床掃除が出来たから

ついでにコタツを出しました。

まだ2シーズンしか使ってなかったこたつ布団は

娘が生きてた楽しい頃を思い出して仕舞い、見るのも辛いからネットで新しく買い直した。

何を見ても辛くて泣いてしまう私だけど、今後はコタツを見て泣く事は無いと思う。

10時頃、レンタルビデオ屋に行ってきた(少し前から やっと行けるようになった)

今日は「デスぺラードな妻たち」など、海外TVドラマを借りました。

現実を忘れる為に集中してDVDを観終わった後はいつも反動が出て泣く。

私だけがDVDを観る事に罪悪感を感じ、娘に申し訳ない気持ちになる。

トイレに立った時とかホッとする場所は特に泣いてしまう。

まだまだ社会に適応できなくて対人恐怖症の引き籠りだけど

少し前から家庭菜園に目覚めました。

中々芽が出なかったの三つ葉だけど、2週間程待ったら芽がでて、

今では三つ葉らしくなりました。

店で買っても安いものだけど他にやる事ないし、

そもそも買い物に行くのが苦痛だから。

娘を亡くした日

平成19年1月23日。

定時制高校から帰宅する筈の娘を

いつもと同じように自宅で待ってました。

しかし21時過ぎに警察から掛かってきた電話から人生が変わって仕舞まいます。

電話では娘の状況を詳しく教えてくれず、淡々と冷静な声で

『〇〇さんが交通事故に遭ったので急いで〇〇病院へ行ってください。』

としか告げられなかったので骨折でもしたのかと思い、主人と病院へ駆け付けました。

処置室に入ると看護師や医師の雰囲気が暗い。 そう感じたと同時に

「大変お気の毒ですが、、」と医師が言い、

脳の損傷がとても大きくてどんな手も施しようがないと告げられ、

もう成すすべもなく、死を宣告するより方法がない事を告げられます。

ベッドに横たわり、顔に布を掛けられている我が子の姿を見た瞬間、

家の娘に何が起きたの?これは何?

確認の為に顔を見ますか?と聞かれましたが

私はそのまま床に座り込んで仕舞ったので主人が確認をしてくれた。

看護師がずっと娘の頭を押さえており、顔を確認する為に頭部から手を離した際、

娘の損傷の惨さを目にした様です。

私が確認出来る筈のない状態だったと後で訊かされました。

激しいショックのせいで声が出なくなり、病院では妙に冷静に見えていたらしい私。

まさか我が子が心肺停止している状態だったとは 思っても無かった。

我が子が死んだなんて嘘だ!!

嘘なのか現実なのか分からなくて奈落の底に落とされた表現方法しか見つかりません。

ただ、そんな言葉や活字で表現出来る様な事では無い。

運ばれた病院から家に連れて帰るまでに3時間ほどの処置時間が掛かり、

呆然と椅子に座って待っていました。

私の理解の枠を超え過ぎていた為、

寝台に乗せられている死んだ女の子が自分の娘だと認識する事が出来ませんでした。

娘は、日付が変わった深夜に病院から紹介された葬儀屋と共に

リビングの吐き出し窓から無言の帰宅をしました。

主人は訳が分からないまま、葬儀担当者の指示通りに娘の部屋から

娘の掛け敷き布団をリビングへ持って来ました。

何で娘の布団がリビングに敷いてあって女の子が寝てるんだろう。そう思ってました。

ただ、白い布を掛けられた女の子の顔を布を剥ぐって見る事がどうしても出来ませんでした。

絶対に娘の筈が無い。その願いが強く、娘だと確認してしまうのが怖かった。

私が娘の死に顔を初めて見たのは葬儀の日、生花を棺に献花する時でした。

何故、娘が棺に入っているのか、やっと頭で分かり始めた。

嘘で在ってほしい。家の子の筈がない。

私の願いとは裏腹で眠ってるだけの様に目を閉じてる我が子に触れると

柔らかかった頬や肩が冷たく、硬くなっていました。

どんなに撫でても撫でても温かく成らず冷たいままでした。

私は一生、あの感触を忘れる事はありません。

後日、ごみ袋の様な袋に入れられて警察署から返してもらった娘の上着とスエットを

広げてみたら色んな所に破れた跡があり、

私の大事な娘はどれ程の痛い思いをして命を絶たれたのだろうか、。

想像するだけで可哀想で不憫で涙が溢れ出て、気が狂いそうになった。

娘が味わった痛みを思うと私が生きていては駄目だと思った。

主人が生きてる事も許せなく成って仕舞ったから夫婦が壊れてしまった。

娘と替わってあげたい。

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