娘を亡くした日

グリーフケア

2008年5月28日

平成19年1月23日の21時過ぎ。

自宅に突然自鳴り響く1本の電話から始まりました。

昼間は働き、夜間に定時制高校に通っていた17歳の娘の事で

警察から電話が掛かってきました。

警察からの電話では娘の状況を詳しく教えてくれず、
淡々と冷静な声で『〇〇さんが交通事故に遭ったので急いで〇〇病院へ行ってください。』
としか告げられなかったので、
まさか我が子が心肺まで停止している状態だったとは
病院の処置室に入るまで思っても無かった。

主人と病院に駆けつけ、処置室に入ると

ベッドに横たわり、顔に布を掛けられている我が子の姿を見た瞬間、

その場にしゃがみ込んでしまいました。

家の娘に何が起きたの?これは何?

激しいショックのせいで声が出なくなり、病院では妙に冷静に見えていたらしい私。

混乱しすぎて現実だと認識できなかった。

先生が「大変お気の毒ですが、、」と言ってたけど其れからの事は

考えられない程の恐怖で覚えているんだけど綴れない。

我が子がこの世から居なくなると云う表現方法が見つかりません。

活字や言葉に出来るほど生易しい物じゃない。

運ばれた病院から家に連れて帰るまでに3時間ほどの処置時間が掛かり、呆然と椅子に座って待っていました。

私の理解の枠を超え過ぎていた為、

寝台に乗せられている死んだ女の子が自分の娘だと認識する事が出来ませんでした。

娘は、日付が変わった深夜に病院から紹介された葬儀屋と共に

リビングの吐き出し窓から無言の帰宅をしました。

主人は訳が分からないまま、葬儀担当者の指示通りに娘の部屋から

娘の掛け敷き布団をリビングまで持って来ました。

何で娘の布団がリビングに敷いてあって女の子が寝てるんだろう。そう思ってました。

ただ、白い布を掛けられた女の子の顔を布を剥ぐって見る事がどうしても出来ませんでした。

絶対に家の子の筈が無い。その願いが強かった。

私が娘の亡くなった顔を初めて見たのは葬儀の日、生花を棺に献花する時でした。

何故、娘が棺に入っているのか、やっと頭で分かり始めた。

嘘で在ってほしい。家の子の筈がない。

私の願いとは裏腹で眠ってるだけの様に横たわる我が子に触れると

娘の柔らかかった頬や肩が冷たく、硬くなっていました。

どんなに撫でても撫でても温かく成らず冷たいままでした。

私は一生、あの感触を忘れる事はありません。

後日、ごみ袋の様な袋に入れられて警察署から返してもらった娘の上着とスエットを

広げてみたら色んな所に破れた跡があり、

私の大事な娘はどれ程の痛い思いをして命を絶たれたのだろうか、。

想像する事など到底出来なくて涙が止まらなかった。考えるだけでも気が狂いそうになった。

娘が味わった痛みを思うと自分が生きていては駄目だと思った。

娘と入れ替わりたかった。

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採卵後1日目から6日目の胚盤胞までの記録

2008年5月24日

~採卵1日目~

今日は昨日採取した卵子の状態を確認する為に病院へ電話確認しました。

5個採取した卵子のうち、4個が無事に受精したようです。

本来なら身体の中で起こる現象が身体の外で行われる事に複雑な気持ちに成りました。

これから5~6日かけて胚盤胞と言う細胞になるまで培養していきます。

着床率を少しでも上げるために胚の状態ではなく、胚盤胞まで育てて子宮に移植する方が良いそうです。

卵子が無事受精し、胚盤胞まで育つ確立が50%と説明を受けました。

先ずは5個のうち4個の受精卵が確認出来てホッとしました。

2008年5月28日 

~採卵から5日目~
朝9時、病院に受精卵の確認電話をしました。4個とも細胞分裂は進んでいますが今朝の時点では未だ胚盤胞には為っていませんでした。

何とか明日の朝に胚盤胞になってくれたら6日目胚盤胞になります。

明日は最終確認の電話をしなくては為りません。
明日の電話は少し緊張して電話する事になりそうです。

2008年5月29日 

採卵から6日目

今朝、クリニックに受精卵の最終確認の電話をしました。

4個の受精卵は順調に細胞分裂をしていましたが2個は途中で成長が止まってしまい、今朝の時点で確認をした所、残り2個だけが胚盤胞になり、来月の移植予定日まで凍結して貰う事になりました。

次回の通院は次の月経が終わったら行く予定です。

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花壇で育てたい夏の日持ちする仏花

グリーフケア

2009年6月29日

庭の片隅に作った花壇には娘に手向ける切り花を育てています。

実家の母が毎日せっせと土を耕し、私に代わって花を育ててくれました。

2022年3月加筆

夏場は直ぐに花が痛むので、こまめな仏花の交換が必要になります。しかし、我が子を失うという大きな喪失を抱えている時期は買い物に出かける事さえ億劫に成りますので花壇を作って良かったです。

  • 画像1番上のヒマワリ・・夏の花の代表ですが切り花にすると花が萎れて1~2日しか持たないのでこまめに交換が必要。
  • 画像左端の赤い球が愛らしい千日紅(せんにちこう)・・丈夫で日持ちするのでお墓などの切り花に向きます。3日位は持ちます。白色やピンク色も在ります
  • 画像左から2番目のピンク、オレンジ、赤い花の百日草(ひゃくにちそう)・・丈夫なので比較的簡単に育てられますが切り花としては1~2日の日持ち。
  • 画像左から3番目の尖った葉が目立つホウセンカ・・茎が太いので花瓶がすぐに一杯になりそう。。2~3日は持ちます
  • マリーゴールド・・秋ごろまで咲くうえ、防虫効果もある万能花です。1週間ほど日持ちするのでお墓の切り花にも向きます。

夏場は花が直ぐに痛みます。

上の5種類の花は育てやすかったですがどんな花を選んでも夏場の日持ちは、悪いです。

お墓など、毎日手入れが出来ない場所へは千日紅、マリーゴールド、菊、スターチス、ケイトウを添えるのが良いと感じました。

(追記)花瓶に1~2滴の漂白剤を垂らすと殺菌効果で花が長持ちします。

花瓶に水を入れ過ぎて茎の上部まで水に浸かっている状態より、茎の切り口が水に浸かる程度の浅い水量の方が長持ちする。

茎の大部分が水に浸かると茎がふやけて雑菌が湧き、花が痛みやすいという原理だと思います

まだ5種類しか育ててないけれど、もっと沢山のお花を育てていく予定です。鶏頭(けいとう)やスターチスも日持ちするので育ててみたいです。

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子宮筋腫を除去して本格的に体外受精治療を開始

/IVFからの高齢出産

2008年5月23日

不妊治療のクリニックの門をたたいたのは今年の3月下旬。

(娘を失って1年2か月が経ったころ)

診察の結果、子宮内に9cmの粘膜下筋腫が見つかり、

子宮筋腫を取り除かなければ妊娠は不可能と診断され、

4月の始めに大きな総合病院でMRI検査をしました。

婦人科の先生が『開腹手術はリスクが伴うので筋腫を小さくしてからの

不妊治療が良いと思います。先ず3ヶ月間、注射で筋腫を小さくしましょう。』と仰いました。

でも、私は素直に聞き入れることが出来ませんでした。

とにかく、少しでも当時の状況を変えたくて不妊治療を急ぎたい気持ちで一杯でした。

娘を失い、食生活の乱れからくる貧血が1年半の月日で更に酷くなり、

通常の数値の半分以下でした。

貧血を治すまでは手術は無理だと言われたけど輸血をする方法で開腹手術に挑む事にした。

子宮筋腫の入院前となる3日前から日帰り入院で3日間連続で輸血をしたお陰で

貧血が改善され、無事に4月の上旬に子宮筋腫の開腹手術を受けた。

(輸血をしてから階段の上り下りで息が切れる事が無くなったのは自分でも驚きました)

子宮筋腫の開腹手術では、開腹したら粘膜下筋腫は1個が9センチだったのではなく、

3センチほどの筋腫が3個並んであったようです。

手術の際、腰に打つ麻酔がとても

むず痒い感覚で気持ち悪かったのを覚えてます。

入院期間は短く済み、1週間以内に退院出来ました。

入院中は兎に角、だるくて眠かったです。

4月の初めに筋腫を取り除いたので

4月の終わりに『筋腫の除去手術をしてきたので体外受精の話を聞かせてください』と、

不妊クリニックを再び訪ねました。

そういう経緯で5月から体外受精の治療を始めたばかりです。

先生も余りの治療の速さに驚かれている様子でしたが

5月初旬には低刺激採卵方法と言うクロミッドと云う飲み薬とFSH注射で排卵を誘発し、

採卵に向けての治療が始まりました。

自分でも驚いてるけど娘が生きていた頃の私は

自分が体外受精に挑戦する事に成るとは思っても居ませんでした。

5月23日(採卵日当日

何時もより早起きして病院に行き採卵をしてきました。

(当日の朝、主人にDNAを用意してもらいましたのでそれも忘れずに持っていきます)

採卵は全身麻酔で行ってくれましたので無痛でした。

9時半に静脈麻酔が入れられ、数分後には意識が遠のき始めて気が付けば採卵が終わり、

気が付いたらベッドの上で点滴を受けていました。目覚めたのはお昼ごろだったと思います。

取れた卵子は全部で5個。3個位取れたら充分だと思ってたから5個も取れたのは驚きです。

クリニックでは早速、今朝持ち込んだ旦那のDNAと卵子を受精させる為に培養します。

明日、クリニックに無事受精したかどうかの確認の電話を入れる事になります。

普通に体外受精を受けている人は今日の様な日は落ち着かないものなのでしょう。
でも、私は何の感情も抱くことが出来ません。

ワクワク、ドキドキ、緊張などという気持ちが欠落してしまってるんだと思います。

でも、今の私にできる事はやろうと思う。

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一人娘を失ってからの不妊治療

2008年5月23日

私は36歳の時、17歳の一人娘を失いました。

平成19年1月23日。ある日突然の交通事故でした。

その日まで元気で当たり前のように生きて笑っていた娘。

元気な我が子が亡くなるなんて事、誰も考える筈がありません。

我が子を亡くすなどと言う恐ろしい事はテレビの中の事。

他所様のお子さんが亡くなる事件や事故がテレビニュースで流れる度に

お気の毒に。。と見ていたのですが、

自分がその立場になり、こんなにも大きな悲しみがこの世に在る事を初めて知りました。

自分の頭で考えられる許容範囲を超えた深い悲しみでした。

在り得ない事が我が子に起こってしまった現実など
普通の人には判らなくて当然だし、それが普通だと思います。

当の私は1年が過ぎても家の中で過ごすばかりで人との関わりを極力避けて生活しています。

ですが周りの人たちは「それでは駄目!そんなんじゃ亡くなった娘さんは悲しむよ」

といいます。確かにそうかも知れません。
ですが、同じ境遇に成って仕舞ったら嫌と言うほど判る筈です。
本当に悲しくてどうしようもないんです。『そんなんじゃ駄目』な事は無いのです。

ブログのタイトルどおりです。「禍福は糾える縄の如し」幸せと不幸は常に隣り合わせ。

幸福な時には調子に乗らず慎重に。

不幸な時は嘆き悲しむばかりせず希望を持とう。私はそういう解釈をもっています。

もう子供のいない夫婦だけの我が家。
出来るなら心の拠り所をもう1度子供に求めたい。

それでも私と同じように一人っ子を失い、次の子供を持つ事を諦めた方々を思うと申し訳なく思います。

子供の数じゃ無いのは判ってます。

残された子供さんが居ても子を亡くした悲しみは皆同じです。

新しい命を授かっても悲しみが消える訳では無い事も判っています。

心の底から求めているものは亡くなった我が子の元気な姿です。

なのに、娘の居ないこの世でどうやって生きて行けば良いのか?と毎日の様に泣いてました。

思い描いていた未来が天と地の様に変わって仕舞った私は

3年後または5年後の自分を想像する事すら出来なくなりました。

ただ、どうすれば今の状況を良くしていけるのかを考えるようになり、

自分が望み、今出来る事をするしかない。そう考えるようになりました。

そんな私は娘を失って1年余り経った38歳で不妊治療に通う事になりました。

10年後に後悔しないためにも挑戦してみようと思う。

挑戦せずに後悔するのと、挑戦したけど結果が出なくて後悔するのとでは後悔の質が違うと思ったからです。

40歳前での高齢出産は大変だろうし、

一からやり直す育児も大変だと思うけど頑張ってみたい。

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