亡き娘は明日で21歳

2010年7月15日

生きていたら明日で21歳を迎える娘。

17歳の誕生日までは普通の家庭と同じ様に

娘の誕生を祝ってたのに「18歳からの誕生日が祝えなくなる」など想像もしなかった。

今日、そんな事を思いながらレンタルDVDショップに出掛けたけど

DVDショップで娘の同級生のお母さんを見かけました。

絶対に話しかけて欲しくなかったので 直ぐに隠れて逃げた。

『元気にしてる?』と聞かれると元気な筈が無いのに変な返事をしなくちゃ成らなくなる。

生きた21歳の娘を持つ母親と会話をする近況が私には無い。

何を訊かれるか分からないし、引き篭り生活の近況報告など出来る筈も無い。

私の近況など言いたくないし、あちらのお嬢さんの近況なども出来れば知りたくない。

明日は気力を振り絞って亡き娘の誕生日ケーキを買いに行く予定だけど

辛くて予約してないからデコレーションケーキは無理かもしれない。

娘の居ない7月16日は明日で4回目、もう遣り切れなくなる。

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視える人

2010年6月25日

実家の愛犬 ボブ の脚に腫瘍が見つかり、残り1年の余命宣告されてます。

獣医によれば手術は出来ないそうです。


半年前から病院の薬やサプリメントを服用しているけど気休め程度。

愛犬ボブや、親族問題など悩みが尽きない母が先日、「視える方」に相談したそうです。

更には亡き私の娘の事も教えて貰ったそうで

娘は今、良い所(上)で笑ってるそうです。

母が私を励まそうとして教えてくれた事を分かって居るのに

母から聞いた言葉に過剰反応してしまった。

私:「なんで?あの子は未だ生きたかった筈やのになんで笑えるん!!」

思わず出た言葉の後に泣いてしまった。

どうにもしてやれないのに「まだ生きたかった!帰りたい。」と泣かれるよりは

良いのかも知れない。

でもやっぱり「向こうで笑ってる」って訊くと、

本当に娘が遠い所に逝ってしまった気がして悲しくなった。

もう2度と逢えない事を諦め切れないのに、それを確信するのが悲しかった。

親が我が子を想う成仏と、他人が思う成仏では感覚が全く異なるんだと感じました。

今はどんな言葉も慰めに成らないけど どんな小さな事でも良いから

今、娘がどんな風に笑ってて、何を想い、何がしたいのか、

もっとリアルに細かく知りたい私です。一言だけのメッセージだと何にも分からない。

矛盾だらけの気持ちに成って揺れ動くから私の扱いには母も手を焼いてるだろう。、

お母さん、ごめんなさい。

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13年目の命日を静かに過ごす

2020年1月29日

1月23日は たったの17歳で娘がこの世を去った日。

世間では「命日」と言うけれど、私はあまりこの言葉を使いたくない。

『我が子の死や命日』を経験する人は殆ど居ない今の世の中なので

自分の辛さを理解して貰えない事が多い。

娘を亡くして1~2年は言葉では表現できない程に苦しくて歯痒くて

『何故家の子が?私も直ぐに死にたい。』と言う気持ちしかありませんでした。

今年で13年目です。時の流れと言うものは薬なのでしょう。

苦しみに慣れて来たのか「なんで家の子が?」と疑問に感じる事に変わりないけど

『元の姿で帰ってきて欲しい』と言う願いが

だんだんと諦めに変わってきて静かに涙を流して過ごしました。

法要などはした事が有りません。世間の常識では行うのでしょう。

我が家の場合では、

娘が死んで13年ごときで娘の死を真正面から受け入れる事が出来ないから

身内を呼んで思い出話とか、お膳を食べる気持ちには到底成れない。

一人で静かに娘の成仏を願うのが精一杯の命日でした。

今年の命日の日も、娘が亡くなる数分前まで一緒に居た友達のYちゃんが

娘の仏壇に手を合わせに来てくれました。

13年経っても1月23日には当時の事を思い出し、

娘を忘れないで居てくれる事が有難かった。

Yちゃんが「お母さんが私を受け入れてくれる様になって嬉しい」と言ってくれた。

当時の私がYちゃんに向かって何を言ったのか覚えてないけど、

私はYちゃんに向かってクソカスに言ったらしいです。

それが当時の私。

今、私が娘の友達に歩み寄れたのは時の流れなのだろう。

1月には結婚記念日もあったけど、

娘を失ってから1度も祝った事が無いし、祝う気も更々無いから

結婚した日など忘れてしまったかの様に過ごした。

私はこの様にして あと何年生きるのでしょう。

手の掛かりすぎる息子を残して死ぬのが怖いと思う事も在れば

完全に育児に疲れ切ってもう死んでも良いわ。と投げやりになる日もある。

私にとって「育児に疲れた」など、贅沢な悩みだ。

どれだけ息子に生きる事を助けられた事か。

普通の子に比べて多少の取り扱いが難しい息子だけど健康で丈夫。

今、私と共に生きてくれてる事に感謝して残った人生を息子の為に費やそう。

亡き娘の誕生日

2019年7月25日

7月16日は平成19年に17歳で夭折した一人娘の誕生日でした。

娘が亡くなった日、夜間の定時制高校を休んでいたら、、

もしくはバイクで通学させずに車で送迎してたら、

ネズミ捕り中の警察に追われる事が無かった筈。

色んなタイミングが悪くて命を落としてしましました。

普段から交通ルールを守ってた筈なのにその日に限って一旦停止を怠って仕舞った様。

サイレンにビックリして停止するどころか加速させてしまい、鉄柱に激突。

本当なら生きて30歳の誕生日を迎えている筈なのに悔やんでも悔やみきれない。

娘本人も こんな人生の終わり方をするとは夢にも思ってなかった筈。

私だってそうだ。

手塩にかけて育てた大事な娘が棺の中で冷たく成ってる姿など

想像すらした事が無かった。

17歳には相応しくない白装束を身にまとい

名前を呼んでも擦っても返事をしてくれない我が子。

弾力のある温かかった頬が人形の頬の様に固く冷たく成り、

これが夢なのか現実なのか分からくなって仕舞った。

そこからの日々は活字で表現出来る様な生易しいものでは無かった。

主人は勿論、両親や妹にも気持ちを開ける事が出来ず引き籠り生活を送りました。

兎に角、人と関わるのが苦痛で、大好きだった動物と関わる事さえ無理でした。

感情を失ってたから、好き、可愛い、美しい、有難う、心地良いと言う感覚は一切無かった。

「もう、私が笑う事は一生無いだろう」と思ってました。

私の場合は不妊治療で再び子供を授かり、

育児をしているうちに少しづつ気持ちが解けて来ました。

今は、娘が17歳からの空白の時間が長く、30歳の娘を想像する事が出来ない。

生きていれば子育てをしながら 夢だった看護師の仕事をしてたと思う。

優しい旦那さんと温かい家庭を作っていただろうか。

あるいはバツイチに成ってたかも知れないけどそれでもいい。

苦難が降りかかっても生きてさえくれれば一緒に悩み娘を支えて守りたかった。

何年経っても短命だった我が子が不憫で成らない。

そんな7月16日の娘の誕生日。

いつも命日に参りに来てくれる娘の友達がひょっこり来てくれた。

どうしたの?と訊くと

娘が夢に出てきたけど夢の中の娘の声が聞き取れなくて

声を忘れて仕舞ってた事が凄く悲しいと泣いてくれました。

そんなこと言われたら私も我慢できず娘の友達と号泣しました。

娘の友人は娘との思い出写真をお菓子に焼いて持って来てくれました。

1年を振り返って(2018年)

2018年12月14日

なんだか今年は疲れた感のある年だったけど

4年生に成った息子の担任の先生がとても良い先生だった事が救いでした。

「もう卒業まで家の子の面倒見てくださいよ~!」っとお願いした程。

今年は夫婦の危機が何度もあってゴタゴタも多かったけど

息子が大きな事故に遭遇せず無事に過ごせたのが何より。

普通の毎日って当たり前の事だけど本当に有難いと思う。

娘が死んでしまった年は心底苦しかった。その翌年も翌々年もずっと続きました。

苦しい気持ちを表現したいけど言葉が見つからない。しいて言えば地獄って言葉。

当時の事を思い出そうとすると 今でも苦しくなる。

我が子を失った悲しみは生半可な悲しみじゃないって事を36歳で知りました。

現在で48年生きてきた訳だけど48年の人生で1番辛い出来事だった。

ま、それは旦那も同じなんだろう。

世の中の誰もが思ってるだろうけど

私自身も我が子の死に顔を見る人生を送るなんて考えた事が無かった。

泣くばかりの毎日の中、不妊治療で授かった息子だけは

親より長生きして欲しいと願って育ててます。

そんな息子が1か月ほど前、

寝る前にいきなり号泣したから吃驚した。

詳しく事情を訊いたら学校の友達とトラブルになって仲間外れになったそうで、。

その事を旦那に相談したらその日のうちに学校までお話を伺いに行ってたそう。

子供たちが授業中なのに「どういうこっちゃ~!!どこのガキじゃー!おら~!」と

教室に行こうとした旦那は教頭先生に阻止されて校長室でお話をしてきたそうです。

担任の先生から電話が有り、初めて旦那の暴走を知った(←恥ずかしいからマジ止めろ)

問題は無事解決したから良しとしましょう。とにかく色々あった1年でした。

 追記。今年も夏休みの工作が学校代表で出展されました。

 そのために頑張ったんだから嬉しい。来年の夏休みはどんな工作作ろうかな~