娘を亡くした日

平成19年1月23日。

定時制高校から帰宅する筈の娘を

いつもと同じように自宅で待ってました。

しかし21時過ぎに警察から掛かってきた電話から人生が変わって仕舞まいます。

電話では娘の状況を詳しく教えてくれず、淡々と冷静な声で

『〇〇さんが交通事故に遭ったので急いで〇〇病院へ行ってください。』

としか告げられなかったので骨折でもしたのかと思い、主人と病院へ駆け付けました。

処置室に入ると看護師や医師の雰囲気が暗い。 そう感じたと同時に

「大変お気の毒ですが、、」と医師が言い、

脳の損傷がとても大きくてどんな手も施しようがないと告げられ、

もう成すすべもなく、死を宣告するより方法がない事を告げられます。

ベッドに横たわり、顔に布を掛けられている我が子の姿を見た瞬間、

家の娘に何が起きたの?これは何?

確認の為に顔を見ますか?と聞かれましたが

私はそのまま床に座り込んで仕舞ったので主人が確認をしてくれた。

看護師がずっと娘の頭を押さえており、顔を確認する為に頭部から手を離した際、

娘の損傷の惨さを目にした様です。

私が確認出来る筈のない状態だったと後で訊かされました。

激しいショックのせいで声が出なくなり、病院では妙に冷静に見えていたらしい私。

まさか我が子が心肺停止している状態だったとは 思っても無かった。

我が子が死んだなんて嘘だ!!

嘘なのか現実なのか分からなくて奈落の底に落とされた表現方法しか見つかりません。

ただ、そんな言葉や活字で表現出来る様な事では無い。

運ばれた病院から家に連れて帰るまでに3時間ほどの処置時間が掛かり、

呆然と椅子に座って待っていました。

私の理解の枠を超え過ぎていた為、

寝台に乗せられている死んだ女の子が自分の娘だと認識する事が出来ませんでした。

娘は、日付が変わった深夜に病院から紹介された葬儀屋と共に

リビングの吐き出し窓から無言の帰宅をしました。

主人は訳が分からないまま、葬儀担当者の指示通りに娘の部屋から

娘の掛け敷き布団をリビングへ持って来ました。

何で娘の布団がリビングに敷いてあって女の子が寝てるんだろう。そう思ってました。

ただ、白い布を掛けられた女の子の顔を布を剥ぐって見る事がどうしても出来ませんでした。

絶対に娘の筈が無い。その願いが強く、娘だと確認してしまうのが怖かった。

私が娘の死に顔を初めて見たのは葬儀の日、生花を棺に献花する時でした。

何故、娘が棺に入っているのか、やっと頭で分かり始めた。

嘘で在ってほしい。家の子の筈がない。

私の願いとは裏腹で眠ってるだけの様に目を閉じてる我が子に触れると

柔らかかった頬や肩が冷たく、硬くなっていました。

どんなに撫でても撫でても温かく成らず冷たいままでした。

私は一生、あの感触を忘れる事はありません。

後日、ごみ袋の様な袋に入れられて警察署から返してもらった娘の上着とスエットを

広げてみたら色んな所に破れた跡があり、

私の大事な娘はどれ程の痛い思いをして命を絶たれたのだろうか、。

想像するだけで可哀想で不憫で涙が溢れ出て、気が狂いそうになった。

娘が味わった痛みを思うと私が生きていては駄目だと思った。

主人が生きてる事も許せなく成って仕舞ったから夫婦が壊れてしまった。

娘と替わってあげたい。

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一人娘を失ってからの不妊治療

私は36歳の時、17歳の一人娘を失いました。

平成19年1月23日。

ある日突然の交通事故であっけなくこの世を去って仕舞った我が子。

その日まで元気に生きて笑っていた娘が 在る日突然死んでしまうってどういう事?

在り得ない事が我が子に起こってしまった現実など

普通の人には判らなくて当然だし、それが普通だと思います。

『我が子を亡くす』と言う恐ろしい事はテレビの中の事。

他所様のお子さんが亡くなる事件や事故がテレビニュースで流れる度に

お気の毒に、、。とTVを見ていたけれど、

自分がその立場になり、初めてこんなにも大きな悲しみが在る事を知りました。

自分の頭で考えられる許容範囲を超えた深い悲しみでした。

活字で表現出来るような生易しい悲しみでは無いのは分かって欲しい。

私は娘の死から1年が過ぎても家の中で過ごすばかりで

人との関わりを避けて生活しています。周りの人たちは

「それでは駄目!そんなんじゃ亡くなった娘さんは悲しむよ」といいます。

そんな時は「どうして分かってくれないんだろう、、」って思う。

自分の命より大事な我が子が死んでしまったのに

どうして元の様に元気に成れるんですか?

同じ境遇に成ったら嫌と言うほど分かって貰えるのかな。

本当に悲しくて苦しくて どうしようもないんだから。

『それでは駄目』な事では無いんだよ。

テレビのチャンネルを変えるかの様に簡単に気持ちの切り替えが出来る出来事じゃない。

長い年月が必要なんです。

ブログのタイトルのとおりで「禍福は糾える縄の如し」

幸せと不幸は常に隣り合わせ。幸福な時には調子に乗らず慎重に。

不幸な時は希望を持とう。私はそういう解釈をもっています。

娘が他界して夫婦だけに成り、私は離婚を考えていた。

離婚を踏みとどませた理由は

「出来るなら心の拠り所をもう1度子供に求めたい」と思ったから。

新しい命を授かっても悲しみが消える訳では無い事も判っています。

子供の数じゃ無い。

残された子供さんが居る親御さんも子を亡くした悲しみは皆同じ様に深い。

心の底から求めているものは亡くなった我が子の元気な姿です。

なのに、娘の居ないこの世でどうやって生きて行けば良いのか?と毎日泣いてました。

思い描いていた未来が天と地の様に変わった私は

娘の居ない3年後や5年後の未来を想像するのさえ怖かった。

ただ、どうすれば今の状況を変える事が出来るか?と考えるようになり、

今の自分が出来る事をするしかない。と決意した。

そんな私は、娘の死から1年余り経った38歳で不妊治療に通う事になりました。

10年後に後悔しないためにも挑戦してみようと思う。

挑戦せずに後悔するのと、挑戦したけど結果が出なくて後悔するのでは

後悔の質が違うと思ったから。

40歳での高齢出産は大変だろうし、

一からやり直す育児も大変だと思うけど頑張ってみたい。

それでも私と同じように一人っ子を失い、次の子供を持つ事を諦めた方々を思うと申し訳なく思います。

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