妊娠33週目~38週目で息子誕生

2009年1月31日(33週目)

先日、検診に行って来ました。

赤ちゃんの体重は33週で2200g程に増えて居た

自分の体重は増えてなかったから病院の帰り道に
又ケーキを買ってしまった。

最近は胃が喉の下まで来てる感じで直ぐにお腹が一杯に成ってしまう。

2009年2月13日(35週)

35週の検診日では特に変わりなく赤ちゃんは2500g程に成長してました。

次回からは1週間ごとの検診になります。来週には手術日を決めると思う。

2009年2月27日(37週)

今日の検診では2700g程に成長。

お腹が重い。胃が圧迫されているせいか食欲が出ません。

っていうか、最後の妊婦検診で まさかの70キロ越え。

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うわ~~!体重70.8kg?人生の中で最高記録。

もうすぐ生活が再び一変します(体型も一変させないと)

本来なら子供の手も離れて優雅なアラフォーを送る予定だったのに

人生は何が起こるか分からないと性根に沁みた30歳代だった。

3月生まれの私は、あと2週間ほどで40歳になる。

3月10日の日記(息子が誕生)

3月2日、手術準備のために入院し、3月3日に帝王切開で男の子が生まれました。

 3月3日の朝、手術室に入ったら先ず背中に麻酔をして貰いました。

背中の麻酔は過去に1度経験してて本当に気持ちが悪くて嫌だったけど、

先生がとてもお上手だったので、すんなりと麻酔針が刺さりあっさり麻酔が掛かりました。

足が痺れてきて感覚が無く成り、お腹を切っていることさえ分かりませんでした。

まだお腹を切開してないのかな?もしかして既に手術は始まってる?って思ってたら、

「もうすぐ赤ちゃん出てきますよ~」と声が掛かり元気な産声が聞こえました。

帝王切開は内臓を触られている感触が在るとか、

術後に傷口がとても痛むという噂を訊いていたけど

背中からの麻酔が良く効いたのか手術中の違和感も感じなかったし、

術後の痛みも無くて、申し訳ない位に楽でした。

入院中は普通の人に比べてテンションがかなり低いけど

看護師さんや他のお母さんとも会話が出来ました。

無事に産まれたけど、

肺が少し湿っているから保育器に入る必要が在ると説明を受けました。

沢山のチューブで繋がれてる息子を見たら涙が出た。

これから子供の成長に伴って色んな人との社会的パイプが広がる事と思います。

自分なりに少しづつ人付き合いが出来る様に成れたら良いと思います。

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(妊娠25週目~27週目)風疹抗体値の再再検査の結果

2008年12月1日(25週目)

今日は約2週間ぶりの通院日でした。

妊娠初期に検査した風疹抗体値が高すぎた為、過去に再検査をしていたけれど

再検査でもプラスマイナスと云うハッキリしないウィルスの値でした。

(巨大膀胱や羊水検査の事で頭がいっぱいに成り、気に留めるのを忘れてた)

で、再検査の再検査を2週間前に受けていて、今日結果が出ました。

再再検査の結果は 問題なし。

妊娠初期から次から次へと不安要素が沢山あって

心配ばかりだったけど、やっと25週目まで来ました。

ただ、今回の再検査の再検査を受けた事は主人には内緒にしてました。

今日の結果が悪かったら相談しようと考えてたけど

相談する羽目に成らず良かった。

問題なく健康な子供を授かれる事って 世間一般では当たり前の事なのかもしれないけど、

本当はとても有難い事なんだと実感した。

今朝、何も知らない主人に病院に行く事を伝えたら、

通常の検診だと思ってるから

「今日は、お腹の子供の写真を もっと可愛く撮って貰って来てな」と言ってました。

こっちの気も知らずに、。と思ったけど親馬鹿な旦那に少し笑えた。

娘を失った私達夫婦には もう2度と子供は持てないと思ってたから

主人も嬉しいんだと思う。

ただ、娘を失ってしまった事とは どんな嬉しさが在っても相殺出来ない。

2008年12月15日(27週目)

2週間ぶりの通院日でした。

逆子に成っているが帝王切開だから別に構わないのか逆子体操は勧められなかった。

娘の時も逆子だったけど逆子体操で直ぐに治った記憶がある。

赤ちゃんの体重は1kg強あり、順調に育ってる。

妊娠初期は標準より小さすぎて心配したけど安心しました。

私の方は妊娠前と比べて20kgも体重が増えてしまった。

ちょっと、いや、かなり生活を見直さないといけない。

病院の待合椅子で足を組もうとしたら、片足が もう片方の太ももの上に届かなくなってた。

いや、これ冗談じゃなくて本当

何度も足を組もうとチャレンジしたけど出来ないから

一人でドリフコントを遣ってる状態でした。

2年ぶりの長距離運転

今日は約2年ぶりに長時間 のドライブをしました。

ドライブと言っても主人が講習を受けに行くから送り迎えをしただけ。

過去に娘を乗せて何度も通った道なので色々な思い出が蘇って胸や喉が苦しくなった。

主人を車から降ろしたら 泣きながらの運転だったけど

昨年の今頃は庭に出る事でさえ一苦労だったから今日は良く頑張れたと思う。

実は、娘が亡くなる1年前から数か月おきに

自分が死んだら、、と何度か訊いてきた事が有ります。

娘:「お母さん、〇〇ちゃんが死んだら皆泣いてくれるかな?

 〇〇ちゃんが死んだらどうする?」

私:「アホな事云わんの!恐ろしくて考えれんわ」

どうして あんな事を何度も訊いてきたのでしょうか、。

私は普段からアルバムを広げる事が多かったです。

月に2回は広げ、穴が空く位に娘の成長する姿をアルバムで確認してました。

今思えば娘の姿を目に焼き付けるかの様に見てた気がする。

それは将来、辛くて見る事が出来なくなるのが判ってたんじゃ無いかと思う位

案の定、もう見るのが辛くて娘のアルバムを開く事が出来なくなりました。

仏壇に娘の好物を置く事しか出来ないのが悔しい。

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娘を亡くしてからの周りの反応

2008年11月10日

私は娘を亡くしてから朝起きる事が出来なくなり、昼まで寝込む事が多い。

何をする気にも成らない。

テレビから聞こえてくる楽しそうな声を聞くのも苦痛だから

テレビを見ない様になり、新聞さえ読まなくなった。

音楽だって聴く気に成らないから

車の運転中のカーオーディオも聴かなくなりました。

太陽の光も未だに嫌。風の匂いにも敏感で風が吹いても悲しくなる。

娘が生きていた頃は早朝から起きて時間が幾らあっても足りなかった。

今はもう、刺激のない静かな空間で過ごしたい。

まだまだ現実を受け入れる事が出来ない。

(2022年3月加筆)

親の場合は勿論ですが、夫婦の場合でも早かれ遅かれ、

どちらかが先に亡くなる事への心積もりが在るのが普通。

ただ、その対象が我が子となると、

今の世の中で「親より先に子が亡くなる」という

心積もりをしてる人は先ず居ないと思います。

当初は、社交辞令的な励まし言葉に傷つき、何度も泣いた。

代表的な言葉は

「早く元の様に元気に成ってね」「いつまでも泣いてたら娘さんが悲しむよ」

「もう帰って来ないんだから」等、。

やっぱり分かって貰えないんだと思いました。

確かに、慰める立場目線だと「元気に成って欲しい」気持ちが1番強いから

双方の気持ちが食い違うのは仕方がない。

ただ、子供を亡くした親は元の自分に戻る事を願っているのでは無く、

『元の姿で我が子を返して欲しい』 その願いしか無いのです。

当時の私は
『ずっと泣き続けて居れば誰かが私のもとに娘を元の姿で返してくれる』

そう思い込んでいて、娘が亡くなった事をずっと認める事が出来ませんでした。

当然ですが、いくら月日を費やしても願いが叶う事はありませんでした。

だからとても辛いのです。

とてつもない月日の経過と共に だんだんと諦めに代わっていったのです。

私の場合はウェブ上で同じ境遇の方のブログを探し、連絡を取り合いました。

励ましあったり慰めあったり、互いに気持ちを共有する事で

自分なりのグリーフケア(喪失を癒す方法)を見つけた気がします。

ブログを通じてメッセージ交換をする事で、

私もこの方たちと一緒に頑張って生きて行かなくては。と思うようになりました。

我が子を失う経験から何年も経過してる方からは

貴重な意見や励ましを貰う事で とても助けられました。

こんなに苦しいのは自分ひとりじゃない。

私の他にも同じ様な悲しみを背負っている親御さんが居る事を知りました。

当時の私は、友人への対応が悪かったのもあり、

『今は、そっとして置こう』→『もう、永遠にそっとして置こう』

と、いう流れで離れて行った友人が殆ど。

それでも、私の気持ちを理解してくれた友人も居て

無愛想な私に玄関先で二言、三言かわすだけの挨拶だったけど

「御供」と書かれていないお菓子や食材を

 娘へのおやつの様に定期的に差し入れ続けてくれた。

その友人とは今でもお付き合いしています。

気難しくなった私を見捨てずに

ずっと見守り続けてくれたミカとノリコは一生大事にしたい親友だと思っています。

(死別)我が子を失ってからの悲しみのプロセス

今日は主人の仕事のお使いで1年10か月ぶりにケーキ屋に行きました。

数か月前ならどんなに頼まれても

『ケーキ屋さんなんて絶対に無理。』と断ってたけど今日は不思議と行けた。

ケーキ屋の店内で娘が好みそうなケーキが陳列されているのを見ているうちに

『娘に買って帰ったら娘が喜ぶだろうなぁ。』と思った。

だんだん、娘が亡くなっている事が嘘に思えてきて

「娘に買って帰ろう」と、娘の分も買った。

帰宅後、直ぐにお仏壇に置いたら我に返る。

何で仏壇に置くんだろう?又辛くなりました。

何だか嘘の世界に住んでいるみたいな感覚です。

娘を亡くしてからの私は人と話をしたり、会うのが嫌で

社会生活に適応出来なくなりました。

ただ今日は、ケーキ屋に行く事が出来た自分を評価したい。

娘を失ってからの私は

ケーキ屋さんで「これ下さい」その一言さえ言えなかったから。

少しづつ出来る事を増やしていけばよいと思ってます。

喪失を癒す作業は人それぞれ個人差が在って当たり前だと思います。

私の場合は普通より長かったのか、短かったのか、、

これも人それぞれなので分かりません。

我が子を失った私は、これからどうやって生きて行けばよいのかが分からず、

グリーフケアの本を読んだりしたけど解決方法を見出す事は出来ませんでした。

我が子の死を受け入れる事ってそんなに簡単じゃない。むしろ到底無理だと思ってる。

(2022年3月加筆)

喪失には悲しみのプロセスと言うものが有るらしいので簡単に記述しておきます。

1.ショック期・・ショックが大きすぎて無反応、無感覚で周りには冷静に見られてる。

あるいはパニック状態に陥る。

2.喪失期・・頭では分かっていても現実だと思えなくて

故人がまだこの世で居るかのように思えてしまう。

泣く、怒る、自分を責めてしまう、敵意さえ抱いてしまう。

3. 閉じこもり期・・頭で理解が出来てはいるものの、

自分の価値観や生きる希望が見いだせなくて無気力になり、

あの時にああすれば良かった、、こうすれば良かったと後悔をする。

4.再生期・・新しい社会関係を築こうと思えるようになる。

人との関わりが出来るようになる。

私の場合は、この15年間を振り返ると1~3がとても長く感じ2~3年は費やしました。

.の新たな社会生活を望むという面では

不妊治療に臨もうと思った事がそれに値するのかもしれません。

しかし、社会的な人との関わりが動揺も無く、普通に出来るようになったのは

4年が過ぎたころかも知れません。

それでもやはり「悲しみを乗り越える」という言葉はやっぱり違うと思っていて、

「悲しみを背負う覚悟が出来た。」と言う意味合いが大きいと思います。

一つ言える事は、数年は掛かりますが悲しみのプロセスからは必ず脱出できます。

悲しみのプロセスの間は今まで出来ていた事が出来なくなります。

個人差はあるでしょうが私の場合は本当に何も手に付きませんでした。

生き地獄の真っ最中なので出来ない事を気にする事は在りません。

家事、仕事、人付き合い等など数年間は以前の様に出来なくて当たり前です。
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