採卵後1日目から6日目の胚盤胞までの記録

2008年5月24日

~採卵1日目~

今日は昨日採取した卵子の状態を確認する為に病院へ電話確認しました。

5個採れた卵子のうち、4個の卵子が精子と受精し4つの受精卵となりました。

本来なら身体の中で起こる現象が身体の外で行われる事に複雑な気持ち。

これから5~6日かけて受精卵を胚盤胞と言う細胞になるまで培養していきます。

着床率を少しでも上げるために胚の状態ではなく、

胚盤胞まで育てて子宮に移植する方が良いそうです。

受精卵が胚盤胞まで育つ確立が50%と説明を受けました。

先ずは4個の受精卵が確認出来てホッとしました。

2008年5月28日 

~採卵から5日目~
朝9時、病院に確認の電話をしました。

4個とも細胞分裂は進んでいて今朝の時点では未だ胚盤胞には為っていませんでした。

明日の朝に胚盤胞になってくれたら6日目胚盤胞になります。

明日は移植出来る状態の受精卵かどうかの

最終確認の電話なので少し緊張して電話する事になりそう。

2008年5月29日 

採卵から6日目

今朝、クリニックに受精卵の最終確認の電話をしました。

4個の受精卵は順調に細胞分裂をしてたけど

2個は途中で成長が止まって駄目になり、

今朝の時点では残り2個だけが胚盤胞になったので

来月予定している移植日まで凍結して貰う事になりました。

次回の通院は次の月経が終わったら行く予定です。

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娘を亡くした日

平成19年1月23日。

定時制高校から帰宅する筈の娘を

いつもと同じように自宅で待ってました。

しかし21時過ぎに警察から掛かってきた電話から人生が変わって仕舞まいます。

電話では娘の状況を詳しく教えてくれず、淡々と冷静な声で

『〇〇さんが交通事故に遭ったので急いで〇〇病院へ行ってください。』

としか告げられなかったので骨折でもしたのかと思い、主人と病院へ駆け付けました。

処置室に入ると看護師や医師の雰囲気が暗い。 そう感じたと同時に

「大変お気の毒ですが、、」と医師が言い、

脳の損傷がとても大きくてどんな手も施しようがないと告げられ、

もう成すすべもなく、死を宣告するより方法がない事を告げられます。

ベッドに横たわり、顔に布を掛けられている我が子の姿を見た瞬間、

家の娘に何が起きたの?これは何?

確認の為に顔を見ますか?と聞かれましたが

私はそのまま床に座り込んで仕舞ったので主人が確認をしてくれた。

看護師がずっと娘の頭を押さえており、顔を確認する為に頭部から手を離した際、

娘の損傷の惨さを目にした様です。

私が確認出来る筈のない状態だったと後で訊かされました。

激しいショックのせいで声が出なくなり、病院では妙に冷静に見えていたらしい私。

まさか我が子が心肺停止している状態だったとは 思っても無かった。

我が子が死んだなんて嘘だ!!

嘘なのか現実なのか分からなくて奈落の底に落とされた表現方法しか見つかりません。

ただ、そんな言葉や活字で表現出来る様な事では無い。

運ばれた病院から家に連れて帰るまでに3時間ほどの処置時間が掛かり、

呆然と椅子に座って待っていました。

私の理解の枠を超え過ぎていた為、

寝台に乗せられている死んだ女の子が自分の娘だと認識する事が出来ませんでした。

娘は、日付が変わった深夜に病院から紹介された葬儀屋と共に

リビングの吐き出し窓から無言の帰宅をしました。

主人は訳が分からないまま、葬儀担当者の指示通りに娘の部屋から

娘の掛け敷き布団をリビングへ持って来ました。

何で娘の布団がリビングに敷いてあって女の子が寝てるんだろう。そう思ってました。

ただ、白い布を掛けられた女の子の顔を布を剥ぐって見る事がどうしても出来ませんでした。

絶対に娘の筈が無い。その願いが強く、娘だと確認してしまうのが怖かった。

私が娘の死に顔を初めて見たのは葬儀の日、生花を棺に献花する時でした。

何故、娘が棺に入っているのか、やっと頭で分かり始めた。

嘘で在ってほしい。家の子の筈がない。

私の願いとは裏腹で眠ってるだけの様に目を閉じてる我が子に触れると

柔らかかった頬や肩が冷たく、硬くなっていました。

どんなに撫でても撫でても温かく成らず冷たいままでした。

私は一生、あの感触を忘れる事はありません。

後日、ごみ袋の様な袋に入れられて警察署から返してもらった娘の上着とスエットを

広げてみたら色んな所に破れた跡があり、

私の大事な娘はどれ程の痛い思いをして命を絶たれたのだろうか、。

想像するだけで可哀想で不憫で涙が溢れ出て、気が狂いそうになった。

娘が味わった痛みを思うと私が生きていては駄目だと思った。

主人が生きてる事も許せなく成って仕舞ったから夫婦が壊れてしまった。

娘と替わってあげたい。

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子宮筋腫を除去して体外受精を開始

出来ればもう1度自分の子供を持ちたいと願い、

不妊治療のクリニックの門をたたいたのは今年の3月下旬。

(娘を失って1年2か月が経ったころ)

診察の結果、子宮内に9cmの粘膜下筋腫が見つかり、

子宮筋腫を取り除かなければ妊娠は不可能と診断されました。

(筋腫のせいで子宮内が変形し、着床するスペースが無い為)

セントマザー産婦人科の画像をお借りしてます。

診断を受けて すぐさま4月の初旬に総合病院でMRI検査を受けました。

先生:『開腹手術はリスクが伴うので筋腫を小さくしてからの

不妊治療を勧めます。先ず3ヶ月間、注射で筋腫を小さくしましょう』

子宮筋腫の治療に3か月も掛かるのか、、。

私はどうしても先生の提案を素直に聞き入れる事が出来ず、

「外科手術で直ぐに筋腫を取り除いて欲しい」と頼みました。

なぜなら、少しでも早く当時の状況を変えたい一心だったから。

ただ、娘を失ってからの食生活の乱れが原因で

1年余りの間に持病の貧血が更に酷くなり、通常の半分以下の数値に成ってたから

「貧血を治すまでは外科手術は無理」と言われました。

けれども、手術のリスクを承知の上で先生に泣きついて頼んだら

数日間 輸血をし、貧血を改善させてから開腹手術 と言う流れで納得した私。

筋腫手術の3日前から日帰り入院で3日間連続で輸血治療をしたお陰で

劇的に貧血が改善され、4月の初旬に子宮筋腫の開腹手術を受ける事が出来た。

(輸血をしてからは階段の上り下りで息が切れる事が無くなったのは自分でも驚いた)

子宮筋腫手術では、開腹したら1個が9センチの粘膜下筋腫だったのではなく、

3センチほどの筋腫が3個並んであったようです。(MRIでは1個の塊に見えた様だ)

手術の際、腰に打つ麻酔がとてもむず痒い感覚で気持ち悪かったのを覚えてます。

入院期間は短く、1週間足らずで退院出来ました。

入院中は薬のせいか、兎に角だるくて眠かった。

4月の初めに筋腫を取り除いたので

4月の終わりには『筋腫の除去手術をしてきたので体外受精の話を聞かせてください』

と不妊クリニックを再び訪れました。

そういう経緯で5月初旬から体外受精の治療を始めたばかりです。

クリニックの先生は 余りの治療の速さに驚いてましたが

5月初旬にはクロミッドと云う飲み薬とFSH注射で排卵を誘発し、

低刺激採卵方法と言う方法で採卵に向けての治療が始まりました。

自分でも驚いてるけど、娘が生きていた頃の私は

自分が体外受精に挑戦する事に成るとは思っても居ませんでした。

5月23日(採卵日当日

何時もより早起きして病院に行って採卵をしてきました。

(当日の朝、主人にDNA(種)を用意してもらい、それも忘れずに持っていきます)

採卵は全身麻酔だったので無痛でした。

9時半に静脈麻酔が入れられ、数分後には意識が遠のき始めて気が付けば採卵が終わり、

気が付いたらベッドの上で点滴を受けていました。目覚めたのはお昼ごろでした。

取れた卵子は全部で5個。

年齢が39歳だったので3個位取れたら充分だと思ってたから5個も取れたのは驚きです。

クリニックでは今朝持ち込んだ旦那の種と私の卵子を受精させる為に培養を始めました。

明日は、無事に受精したかを確認する為に クリニックに電話を入れる流れです。

体外受精を受けている人は今日の様な日は特に落ち着かないものでしょう。

でも、私は何の感情も抱くことが出来ませんでした。

ワクワク、ドキドキ、緊張などという気持ちが欠落してしまってるけど

今の私にできる事はやろうと決めた。

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一人娘を失ってからの不妊治療

私は36歳の時、17歳の一人娘を失いました。

平成19年1月23日。

ある日突然の交通事故であっけなくこの世を去って仕舞った我が子。

その日まで元気に生きて笑っていた娘が 在る日突然死んでしまうってどういう事?

在り得ない事が我が子に起こってしまった現実など

普通の人には判らなくて当然だし、それが普通だと思います。

『我が子を亡くす』と言う恐ろしい事はテレビの中の事。

他所様のお子さんが亡くなる事件や事故がテレビニュースで流れる度に

お気の毒に、、。とTVを見ていたけれど、

自分がその立場になり、初めてこんなにも大きな悲しみが在る事を知りました。

自分の頭で考えられる許容範囲を超えた深い悲しみでした。

活字で表現出来るような生易しい悲しみでは無いのは分かって欲しい。

私は娘の死から1年が過ぎても家の中で過ごすばかりで

人との関わりを避けて生活しています。周りの人たちは

「それでは駄目!そんなんじゃ亡くなった娘さんは悲しむよ」といいます。

そんな時は「どうして分かってくれないんだろう、、」って思う。

自分の命より大事な我が子が死んでしまったのに

どうして元の様に元気に成れるんですか?

同じ境遇に成ったら嫌と言うほど分かって貰えるのかな。

本当に悲しくて苦しくて どうしようもないんだから。

『それでは駄目』な事では無いんだよ。

テレビのチャンネルを変えるかの様に簡単に気持ちの切り替えが出来る出来事じゃない。

長い年月が必要なんです。

ブログのタイトルのとおりで「禍福は糾える縄の如し」

幸せと不幸は常に隣り合わせ。幸福な時には調子に乗らず慎重に。

不幸な時は希望を持とう。私はそういう解釈をもっています。

娘が他界して夫婦だけに成り、私は離婚を考えていた。

離婚を踏みとどませた理由は

「出来るなら心の拠り所をもう1度子供に求めたい」と思ったから。

新しい命を授かっても悲しみが消える訳では無い事も判っています。

子供の数じゃ無い。

残された子供さんが居る親御さんも子を亡くした悲しみは皆同じ様に深い。

心の底から求めているものは亡くなった我が子の元気な姿です。

なのに、娘の居ないこの世でどうやって生きて行けば良いのか?と毎日泣いてました。

思い描いていた未来が天と地の様に変わった私は

娘の居ない3年後や5年後の未来を想像するのさえ怖かった。

ただ、どうすれば今の状況を変える事が出来るか?と考えるようになり、

今の自分が出来る事をするしかない。と決意した。

そんな私は、娘の死から1年余り経った38歳で不妊治療に通う事になりました。

10年後に後悔しないためにも挑戦してみようと思う。

挑戦せずに後悔するのと、挑戦したけど結果が出なくて後悔するのでは

後悔の質が違うと思ったから。

40歳での高齢出産は大変だろうし、

一からやり直す育児も大変だと思うけど頑張ってみたい。

それでも私と同じように一人っ子を失い、次の子供を持つ事を諦めた方々を思うと申し訳なく思います。

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